君さんは今日もめげずに自転車をこいでいる
しばらく見ぬうちに思わぬ変化をしていると言う事は世の中に数あるものでございまして、よその子などこれはよっぽど引っ張り上げたに違いないと思わせるほど背が伸びたりしていて変貌を遂げておりますから、一寸の油断が大きな驚愕につながって参ります。
色の白い君さんは人より一寸立派な巨体を自転車に乗せてゆらりゆらりと現れて参ります。
サーカスの白熊が自転車乗りの芸をしているかのごとくですから、どこやらの国で作った安手の自転車などは気の毒なもので、何もあそこまで自転車をいじめることもなかろうにと同情を買う始末と成っております。
君「浪士さんよう・どがなんかな」
浪「ほいきた、今日も自転車苛めに精が出るのお・ちったあ加減しちゃらんと自転
車の親が我が子が不憫じゃと泣いとるで」
浪「世間の宛がい扶持の冷や飯に漬けもんで青息よ・・君さんはどうな?」
君「そりゃぁあんたの努力が足らん、わしは朝新聞配って、ついでにヤクルト
配って、行きがけの駄賃に空き缶まで拾うとるんじゃ、努力は嘘をつかん
けえのお」
とまあ挨拶がてらの世迷いごとのやり取りで推し量るに、世間話の暇つぶしに今日は釣り師を餌食にするらしい。
君さんは学校を出ると親父さんの川砂採取業を手伝い、採取がご法度と成るまではこれと競走馬の馬主別当でしのいだ人だ。
馬主別当とは厩舎を間借りして飼育は自分で賄う、飼育料はいらぬのでその分が取り料という事になる、そういう仕事だ。
もちろん競走馬なので、競争に使えばあわよくば賞金も手に入るし出走手当ても実入りに成る。
この二本立ての生業には訳があって、川砂の採取は河口近く、潮の満ち引きの加減ではどう足掻いても半日は仕事に成らない、その空いた時間を馬の飼育で埋めたらしい。
それに、国の河川から届けも出さずに続けてきた砂採取もどうやら五月蝿くなってきて、届けろとか止めろとか役所が五月蝿い。
江戸時代から続けた家業で既得権があるだのと言い張ってはみたものの、どう考えてもあのころセメントの建物など無いし、そろそろ見切りをつける潮時かとは思っていたらしい。
砂の採取には余禄があって、砂を掘った後の穴に潮の干満で逃げそびれた魚が有った事だ。
「チヌにひらめ、カレイにぼら、たまにすっぽんと獲れたもんじゃ」と言うのだが、これは河口堰が出来るまでの話。これからしばらくのうちに魚が獲れた穴に小学生が落ち込んで亡くなるということや、川砂の採取が全国的にご法度と成るなどして、君さんは勤め人に成った。
浪「ところで昔は車じゃったが痩せるのにやせ我慢で自転車ばっかりかい?」
君「そりゃぁ読みが浅い、体調維持だけで痩せようとは欠片も思うもんか、ええな
これより痩せても異変、これより太っても異変、維持 維持、現状維持」
とはいうものの車には乗れない訳が有って、自転車にしか乗れない身分だからだ。
君さんにその辺の事情を聴いたのは自転車に乗り始めてからだいぶったった頃で、白熊の言うには車に乗っている時どうやら飲酒運転をしたらしい。
運悪くパトカーに不審がられる所となって、制止を振り切り逃げたんだそうだ。
逃走途中この白熊は考えた。 飲酒運転で捕まるかそれとも駐車違反で済ますかと。
顛末はこうだ、駐車違反でやり過ごそうと意を決した君さんは、駅前に車を止めて駅のトイレに逃げ込んだ。 あわよくば篭城中に酔いも醒めるだろうし、これなら駐車違反で済むわい。なに、腹下しで我慢成らんと抗弁する意を決したのでした。
何のことは御座いません、身の毛もよだつほど集まったパトカーと警官にあえなくトイレから引きずり出されて、身も細るほどの罰金と免許取り上げ、おまけのきつい説教を食らったところで、自転車と遊園地の車にしか乗れない身分に成ったんだそうだ。
今日もゆらりゆらりと自転車をこぐ君さんの姿は巨体こそ変わらないが、わずかばかりの間に随分と日常は変化していた。
「浪士さん、カレイは釣るもんじゃあないで・・」
「ほう・・異な事を・・してどうするんだい・・」
「芦田川で水を濁すとカレイが寄ってきて、足の下に潜る。それを踏みつけてつかまえる」
などと海が豊かだった頃の話を聞きながら、諸般の事を事情聴取したことだ。