ブログ日数100日 記事101 で釣り師が思う事
なんだかんだの事で、ブログ日数100日になりました。
記事の数101、よくもまあネタのほうが有ったものだと、我ながら関心する事だった。
書いてきた釣り場の周辺では、そう毎たび事件は起こりませんから、それだけ長きに渡って釣ってきたと言う事だ。
書くネタがまだあるところを見ると、これは相当釣りの事などにかまけておった証だ。
釣り師を気取るも、釣り師たるもの、一体全体何者かと言うことになると、これが分かってこない。ブログを書くうちになんとか分かってくるものだろうとは思っていたが未だ輪郭さえつかめていない。
このブログを何故始めたかと言うと、これもはっきりした動機が無い。
一ついえるのは釣ってきた事を何らかの記録には残したいと思っていたのは間違いない。そこで釣り師を気取ったものだから、いきおい釣り師とは何かということになってしまった。
100記事書いて何をしてきたか、自問するに釣り師とは一体何か、その姿を削り出す作業だったような気がする。
釣りは魚を釣る作業の事で、特段珍しいものではない。面白さを感じるのは、周辺で取り巻く人間の悲喜こもごもだ。食えぬ釣り師もどこか可愛いもので、どこか憎めない人ばかりだ。ほとんどの人が政治や社会の主流からは取り残されているが、釣るという行為を通じて、健気にももがいている。人の社会と言うのはこのような者も含まれた集積を言うのだと思う。この辺を書くのは日が当たっていないからかもしれない。
ブログを始めて大勢の人に励ましを頂いた。初めて星を下さった方、コメントを始めててくれた人、面白がってくれた人、それは支えられた。
この場をお借りしてお礼申し上げます。有難う御座いました。
この方々が無かったら、ここまで執着して書けたかどうか分からない。支えていただいたら、支え返す、及ばずながらコメントもしたことだ。何ほどの役にも立たないことが分かるだけに、ふがいない自分に未だ努力を求められる。達観は許されないのだ。
釣りは未だその底を見せない。やるほどに複雑怪奇なものとなって立ちはだかる。
ブログもそうだ、総体などかけらも分かっていない。釣りとブログ、これからどう関わるのか、変化や進化が求められるのは言うまでも有るまい。
さてどうするか・・・