釣り師が魅入るもの
梅雨空といいますことで、何事も とても晴れやかにとは参りません。
街中の風景にいたしましても、昨今では風情と言うものが次第に姿を消すのですから、思わず魅入るなどということが少なくなってまいりまして、とても晴れやかとは参りません。
釣り師といいますとあまたの辛惨を舐めつくし、それでも己が釣技の向上をとり付かれた様に目指すのですから、おびただしい時間と労力を費やすことに成ります。「事を成す為には時間と労力に積み上げが必要」なものだと身体に沁み付いて、それはそれは思い込んでおります。つまり積み上げこつこつ方式ですな、遇直に一つ一つ検証していくわけです。
ここいらが天賦の才を持ち合わせぬ小市民の悲哀な才とでも申しましょうか、これ以外に釣技を向上させるすべが無いのですから、地味に馬鹿な事を繰り返しておるのです。この作業、苦悩を抱える事ですから、こちらも晴れやかとは参りません。
このような人間は、魚に翻弄され痛い目の経験も吐いて捨てるほど持ち合わせておるものでして、なかなかに信用するということをいたしません。
新しい技術なり知識にしても聞いたからすぐ鵜呑みにするということはいたしません。まずほんとかどうか自分で確かめて、なるほどそうであったらやっと信用するという、かなり反応が遅く、その上猜疑心の塊ですから扱いは手数のいることです。
早い話が神様の「お告げ」でも「やって見にゃあ分からんわい!」とやけに疑い深いのです。
そんな釣り師ですが市内のあちこちには魅入ってしまう場所をそこはかとなく確保しているもので御座います。
これは何かと申しますと見ての通り「木」であります。何の木かと申しますと、これが貴方、誰にも言っちゃあいけません、そっと教えますから。「イチジク」なんですよ。
何でイチジクなのかと申しますと、こりゃあねえ私がこの木と畑が好きだからです。なんでこんな奇怪な木が好きなのかと申しますと、時間をかけて丹精されているからですよ。
見ようによってはこの木がずらりと並んだ畑なぞ、奇怪の集合住宅のようなものなんですがね、よく見ると畝は整然と整備されて、木口などは水で腐らぬよう処理されています。それに不自然に曲げられた木が整然と並んでいるなんざぁ、それは見事なもので御座います。
釣り師といたしましたら苦労のあとが偲ばれる物を見ますと、ついつい共感などしましてね、魅入ってしまうのです。
本物が何かは分かりませんが、限りなく本物と言われるものに近いのではと思うのです。
先日さる所でどうしょうも無く、思わず振り返るほどの美人に出会いまして、口を効くのも憚られる、これほど埋められない距離を感じたことは御座いませなんだ。
もちろん口を半開きにして魅入ったのは間違いないのですが、この方がはたして時間と労力を費やして丹精された本物であったのかどうか、いまもってこれは分からない。