波止場の忠兵衛の死
さて 釣春 と申しますが果たしてそんな言葉が有るのか無いのか、聞いたことが有るような無いような、誠にもって釣り師ごときのたわごと、お聞き流しの上、お笑いいただければ幸いです。
今年も誰が頼んだわけもなく春というのはやってまいりまして、一人 釣師だけではなくて世間様も浮かれ出してまいりました。
浮かれたのは世間が先だ、釣り師が先だというのはわきに置きまして、釣り師が先に決まっておりますが、そんなことはおくびにも出さず釣り場にやってまいりました。
なに一寸病んだりいたしましたところ、わずかの間にもその取扱いは変わってきておりまして、休んでおる間にその座をちゃっかりせしめる奴や、名人面をして何やらおかしげなご高説をのたまう者などで、それは賑やかで、さすが野盗の集まりでございます。
「その何だな・・あんた・・足がついとるのお、おいみんな浪士の野郎足がついとる
ど」
「まだバケモンにはなっとらんわい、目ん玉ひん剥いてよ~く見やがれ、両の足 、 しゃあ人間様のもんじゃい、どれ匂いをかがしてやる、こい!」
「あんたあ誰じゃったかいのお、見かけん顔じゃ、怪しいぞ・・おお、警察呼べ や・」
「ふふ、あの世から蘇ったんじゃ、あんたに取り付いて背後霊になっちゃる」
「いいか、あの世行きの際は誰か必ず道ずれをと考えておる。どいつにしてやるかのぉ」
「ところで船頭、ちと物を訪ねるが件の忠兵衛はつつがなくお過ごしか・・?」
「それじゃ、そこじゃてや、奴は冬場寒い日にな、渡船場に着いたばかりの釣り師の
車に潜り込んでな、潜ったゆうてもタイヤの上に乗ったんじゃ、それで具合が悪う
て事故に合うてのう、あの世行きよう、あれが悪いこれが悪いゆうても、 せん方
にゃあでのぉ」
長い間の懸案だった忠兵衛の写真を機会あらばと思ったんだが・・・
「あの猫じゃあにゃあが新しいのが居ついとるで、両目はちゃんと付いとる」
とは言うんだが、こちらにしたら猫なら何でもいいというわけには、そうはいかない
。
世に愛猫家の数あるところ、飼っている家の猫にそりゃあ思入れの有るところだ、よその猫じゃあ我慢が出来ない。
忠兵衛は独眼の身でありながら、誰にも不服を言うわけでもなく、おのが裁量で立派に生き抜ける猫だ。他の宛がい扶持猫じゃあいけません、役者が違います。
釣りの初心者にどうしたら魚が思うように釣る事が出来るのかと尋ねられた時に
「忠兵衛を良く観察したら自在よ、あの猫を分るまで眺めるこった」と言い放ったことがある。
たまった釣り師はひとしきり忠兵衛の話題をすることだ。
世渡りのすごさを見せつけられていた釣り師は、少なからず畏敬の念を抱いていたことは確かだ。
病後 久方ぶりに釣り場に顔を出しますと、もう亡き者にされていたり、借金で逃亡したらしいなどと、まことしやかに噂されたり、これじゃあおちおち病気を楽しむなどしておれません。
油断も隙もあったもんじゃあないのです、凶状持ちにされるなんぞはあれよの間、釣り師の中でもあまたの試練を潜り抜け、凌いでゆかねばなりません。
変わりゆく景色の中で世間様の思惑通り、安手にくたばる訳にはいかないのです。