釣り場の 「粋」 と 「無粋」
釣りに参りましても、釣りたいのは人間の都合で、魚にとっては釣られたくないのは、当たり前のことでしょう。
人間も食わねば生きてゆけませんから、漁に出かけて魚を獲りますが、魚も生きてゆかねば成りませんから餌を食います。ところが、魚にとって食い違いというのは命を失うことですから、釣る側と違い、切実さにおいては大きな差が有ります。
ことあろうに最近では、リールに、合わせから、やり取り、巻き上げまでコンピューターに制御させるものから、仕掛けの上にカメラを設置して手元のモニターで食った魚を釣るものまで、卑怯の極みともいえる兵器が売り出されています。
人知をつくして生態を研究され、環境破壊で棲家を追われ、低引き、乱獲で根絶やしの危険にさらされている好敵手にこんなものまで持ち出す必要があるものなんでしょうか。
世の中にはハンディを課して、公平を図りお互い生き延びる手法がありますが、これは人対人の話。 力関係ではどうにも分が悪い魚を相手に、このような道具を繰り出すのは公平さを欠く、無粋な手口といわねば成りません。
生きるために技を磨き、精進、工夫がなければ生きられなかった時代と違い、便利で安全な時代となった今、切実に考えなくても生きられるのでしょうが、それと共に輝きの、力の在る人相にお目にかかることが少なくなった昨今です。
「粋」の反対は「野暮」、 「無粋」でもあります。
釣りをすることで味わえる心の開放と狩の緊張感、なかなかにこのような精神のありようは、手に出来ません。釣りは古来より、魚と人のせめぎあいの中に成立していたもので、せめて釣りぐらいはシンプルな仕掛けで己の腕を持って対したいものです。
コンピューターに支配される時代、システムのダウンは多大な混乱を生みます。バックアップシステムとして「腕」を備えておくのも一手ではないでしょうか。
春先のことでした、同じ筏に投げ釣りの釣り師と乗りあうことがありました。私のほうは、かかり釣りですので三尺ばかりの短竿手持ち1本、その方は長尺置き竿六本、その上胴付き仕掛けの三本針、ずいぶんと多角経営に乗り出されたものです。
この様な状況に置かれた場合、勝負となるのは男の性でしょうか。大人気ないといわれればそれまでですが、俄然、本能に裏打ちされた闘争本能を抑えることは出来ません。
魚には随分と気の毒なことでした。「うっ・」の掛け声で合わせをくれて注意を引き、やたら永いやり取り、3分のところは5分。もちろんオーバーアクションであることは言うまでもありません。水面では、ばしゃばしゃとタモ入れに手間取り暴れてもらいます。 あおりにあおって数度。
子供じみた事で、とてもこの道の渡世人とは言えないいびつな満足感は得られたのですが・・・・・
はたして 「粋」なことであったのかどうか・・・・・