「建さん」そりゃぁ漁師じゃあない! 釣り師だ
遅くに帰宅して、一杯引っ掛けておりました。テレビの画面には先日無くなった高倉健さんと田中裕子さんの、辛らつな話の映画だ。
高倉健さんの映画と言えば、私の世代は番外地であり残侠伝で男を磨いたもので御座います。映画館を出ると、そこはいっぱしの渡世人、なにやら両肩は風を切る風にも見えます。
にわか渡世人、二日と持つものですか、あとは至らぬ若気が顔を覗かせてまいります。何度繰り返した事か、素地が悪いのでしょう、至らぬ若気はいたらぬままで今日です。
職漁師の方と話します。知り合いの漁師も多いので、下衆な話から漁の話、暮らし向きまで様々話してまいります。
大概の話の成り行きは、良かった時代の話しに始まり、最近の漁場の有り様で終わります。「昔は明日の事など考える必要が無かった、海に出て魚を拾うてきたら殆んどの事は賄いができたもんじゃ」こう言う漁師、昔は景気のいい話と、飲む打つ買うのうすい話だったような気がするが、今では話の中で魚の値段、海水温、環境、原油、燃料それに政治向きと、かなり厚手の話が混じるようになった。
魚さえ追いかけていれば成り立った当時と比べ、物事を考えなければならなくなったのは進歩と言えるのかは分からないが、一様に顔色はさえないのである。
建さんの映画の題名は「ほたる」であった。漁師をしている建さん、奥さんの事情で養殖を始める。ここいらは昨今の漁業事情を反映している。内海でも盛んに海苔だのブリだの鯛だのとあちこちに設備がある。需要の変化と言う事もあるだろうが、自然界だけの生産力では賄い切れないので、補完の意味もあるだろう。
ここいらが漁業のほころび、未来の姿では無いだろう、考えねばならないところだ。漁業者はもちろん我々釣る側の者も、何も考えず漁や釣りをしたのだが、哀しいかな様々な事を考えねば成立しなくなっている現実がある。
職漁も釣り師も何も考えず、ただ漁や釣りが出来るのが本来の姿だ。眉間にしわよせて、小難しい事を考えながらなんて御免こうむりたいものだ。
若い頃はどういう人格になるか考えた、番外地の建さんの有り様からは少なからず影響を受けた。今釣りをするに当たっての関わり方にもその影響はある。一貫した筋のようなもの、自然に対する畏敬の念これらをはずしたところには、殺伐とした海と人間の関係しか残らぬのだろう。
映画の最後、田中裕子さんが言う「二人して見た事も無いような大きなアラを釣った、だがあんたは夢がなくなるからといって逃がした」・・・
「建さん」そりゃあ漁師じゃあない ! 釣り師だ