「音もなく忍び寄る音」と釣り師
この世に不思議な「音」が御座いまして、それは「音もなく忍び寄る音」と言う「音」なのです。
若い頃でありましたが、お寺様の本堂をお借りして落語会を催してまいります。その会のお手伝いを末席でしたことです。
数度の事ですから、東西の名代のお師匠さんには、殆んどお世話になりました。
今思い出してもそれはきらびやかなものでして、贅沢であった事です。
お寺の本堂ですから、本筋は仏事です。そこに「落語会」を割り込ませるのですから、住職様の余程の勇気ある理解がなければ成立しません。つまり余程生臭でなければならないということです。
昔は博打場であったり、説法が芸事につながって講談などに発展しましたから、あながち場違いでは無いのですが、場所が場所です。
当時は葬祭会館など潤沢には御座いません。葬式などお寺の本堂で行っていましたから大変です。
その上お亡くなりになるのは、これは出物腫れ物、調整が効きません予定など立つ訳がありません。微妙な予定の管理は住職様、人を集めるのは我々、お師匠さんは笑わせる、お客さんは高笑いと役割が整ってまいります。後はお亡くなりになる方の都合と言う事になりますが、前後に大笑いと言う事になりますのでそれは気を使うことです。
さて「音もなく忍び寄る音」このお話は桂米朝師匠からお聞きしました。
お師匠さんぐらいの芸を極められたお人と言うのは、舞台の袖から高座に上がられるまでのわずかな距離で、それは笑わされます。ただ歩くだけなのですが、今日のお客は軽いか重いかちょいと顔を向けます。この間合いが絶妙で、どっと笑いが起こります。
座布団にすわって少しの間、何もなさいません。これでもどっと沸きます。
「今日のお客様は随分軽いようで・・」このあたりになりますと、ハンカチで目頭をおさえながら泣き笑いになります。普通の人がこれをやりましてもしらけるだけで御座いまして、芸の力とは恐ろしいものです。
楽屋で米朝師匠と話してまいります。落語には出囃子をはじめ話の最中の効果音などがありまして話を盛り上げてまいります。
「音もなく忍び寄る音」とは、このお話の最中に太鼓で出される効果音で、言葉によるよりも、音のほうが効果が高いらしいのです。もちろん修練を積まれた方の音でなければ、効果が無いのは言うまでもありません。これで、音もなく忍び寄ってまいります。
周防の猿回しの会の村崎さんのお話でも、人を寄せるのに声で寄せるよりも、抜けた太鼓の音のほうが効果は高いと言う事でした。もちろんそんな音は素人では出せません。手練に成る必要が有りますし、道具の事などでも撥はびわの木を使うと言います。これだと、しなりが他の木よりあって、音の抜けが良いらしいのです。
丸暴の刑事さんの話によると、びわの木の木刀はしなりが利いて、殴られたらダメージが大きく、他の木よりも罪は重いといっておりました。
細かなほんの小さな違いは、ほんとは大きな違いになって、我々に作用してまいります。
記事を書く最中、当初の思惑と違って内容を変えて参ります。
当初は魚の忍び寄る音について書こうと思ったのですが、止めます。
閃いたのです。釣りの質問を受けたとき、言葉より有効な「音」を使ったらより早く確実に伝わるのではないかと言う事です。太鼓たたいて人寄せて・・・・・
あこう浪士、ただ今から修行に行ってまいりま~す!