鮮やかに事を成すということ!
昨日異名をとる人のことを書きましたら、近しい人から様々お話がありまして、それぞれ世間様にはいらっしゃるようで御座います、業界ごとの猛者が。
さる鍵屋の親方、なにやら妙な工具を取り出して、巧みに鍵を開けてまいります。
何がどうなっているのやら門外漢には分かりませんが、簡単に開くもので御座います。車の鍵、自宅の鍵、時には映画に出てまいりますような、右に45左に100とか回すダイアル式の奴もあります。事も無げに開けるのですから教えて欲しいものですが、どうやら浪士様は、日頃の行いからして教える対象には入ってまいりません。
さて親方、最近の泥棒は情緒が無いといいます。
何でも鍵など力任せにぶち破り、かなり暴力的な進入の仕様なのだそうだ。
昔はこちらが感心するような開けっぷり、つまり鍵など壊さず技術を使ったらしいのだ。
職人と言うかプロは、被害にあった人が何日も気が付かぬよう、事を済ますのが綺麗な仕事っぷりということになって、関係者を納得させて参ります。
警察や盗られたほうを感心させなければ、いい仕事をしたと認められないそうで、事が事だけに褒められた事ではないのですが、技の鮮やかさに思わず共感した事が昔はあったそうだ。
最近のは「情緒がねえ!」と残念がる。
泥棒と言えば、その仲間内か親戚筋に「すり」と言うジャンルが御座いまして、人様の懐中を探ってまいります。
こちらも昨今では、数人でとりかこんで強奪、かなわぬとなれば殴るける、抵抗できぬようにして懐中の財布へ。 これはもはや「すり」ではなくて、れっきとした強盗だ。
その上酔っ払い、年寄りや婦女子に向かうとなれば弱いものいじめ、これはなさりようではありません。これも芸の無いやつの、しょうも無いやりようで社会の迷惑以外何者でもありません。
「すり」で高名な方に、「仕立て屋銀次」と言う方がいらっしゃいまして、人様の懐を探ってまいります。 と言いましても銀次さん、この方は人様の懐には一回も手を入れたことが無かったそうなのです。
では、どの様なすりであったかと言うと、すりを束ねる頭目をなさっていたようなのです。
どうも、「すり」の様であって「すり」では無いが、どちらかと言うと「すり」であったお方なのです。
子分様の中には、大層な腕のお方もいらしたようで、背広のボタンを外し内ポケットから財布を抜くと、札だけ抜いて元に戻す、その上ボタンをかけてあげる技を持った人も有ったようで、実に鮮やかな惚れ惚れするようなやりようです。
銀次一派は金持ちからしか すら なかった、と言われて義賊扱い、持ち上げる風も御座いますが、すられる金も無い貧乏人の我々からは、する金が無いので手を出さなかっただけで、特段褒めるようなことではありません。
このような鮮やかな手口、釣りも鮮やかな有り様でなければなりません。
狙われるような財布を持たぬ身、「すり」のお方は相手にしてくれません。
さて、どちらの手練に教えてもらいましょうか。