備後「あこう浪士」  釣り場の周辺

  釣り場は釣り師の巻き起こす喜怒哀楽に満ち満ちて・・・  さて 事件は釣り場の周辺で起こってまいります!

道楽者の「波動釣法」と釣り師

 

 

 良くしたものでして、魚と言うものは釣り師の気配を悟っているのではないかと、思う事があります。

釣り師の側からすると気力充分、集中力のある時とんと釣れずに、竿を置いて気を抜いたときに竿先が絞り込まれるという経験をよくします。 

たまたまそうなったのか、仕掛けを通じて気配が伝わっているのか、その辺の能力を退化させた人間には分かってまいりません。

 

 釣り師は釣りをしますからここいらの事はいつか決着をつけねばなりません。

 

 

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  自分の事を「道楽者」と称する人がありまして、道具から勝負服にいたるまで、きらびやかに揃えてまいります。竿などは江戸前の和竿、竹で出来ております。釣りの効率よりも、水の上の見た目が大事でありまして、それは洒落て参ります。

このような方は、どの趣味の世界にもいらっしゃるもので、これにひと講釈付いてまいりますから、辺りの人間としては扱いが面倒なものに成って参ります。

 

 

 この道楽者、何処で吹き込まれたか目覚めたか、「波動」とやらの屁理屈を装備してまいりまして。

何やら、物にはそれぞれ固有の波動があるらしく、魚の波動と人間の波動は違うといいます。釣りをする場合、人間の波動が、道具を通じて向こうに気配として伝わるから警戒されて釣れぬ、と言う理屈になるらしいのです。

 

 

道楽の言うに、魚になって相手を安心させるか、こちらが完全に気配を消すかだそうで、魚には成り様が無いので、「自分は無である」と念じて釣るそうだ。どうやら「無」に成り切る積りらしいのです。無になるのを念じる人が居る以上、無には成り様が無いと思うのですが、居るけど「いない」らしいのです。

  

 道楽の道楽は中途半端なもので、ほんとの道楽者でありましたら、身代の一つや二つ平然と潰して参らねばなりません。

餌のエビが逃げ惑うのを浅ましく追いかけているようでは身代は潰れて参りません。

 

 この方、釣りのほうも半端なもので、立派なのは表面だけの体たらくでありますから、当然のごとく「立派なお題目」も役には立ちません。はい、当然付け焼刃の理屈とにわか仕立ての気配消しなど、通用する訳がありません。空しく漆仕立ての竹竿が宙を舞っております。

 

 気配丸出しで釣る、まったくいけません、これほど無防備で魚に当たるなど、釣り師にとっては自殺行為ですから、道楽の言わんとするところは分からぬでもありません。しかし気配を消すなど、余程心血注いだ決死の修行で成すか成さぬかぐらいのものですから、容易には手出しなど出来ぬ事です。

 

 道楽の野朗を立派な一人前の道楽釣り師に仕立てるのと、ここは一番、身代を立派に潰せる様、手助けしてやらねばなりますまい。武士の情けとはそういうことだ。

 

 

 浪士 「おい、今日の失敗を糧にしてまた精進せい! 忘れるのに”パアッ~ト”い

    こう。みんな集まれ、こいつのおごりで行くぞ!」

 

 道楽 「・・・・・・・?」

 

 

 

 後日記  道楽が今度は「葉隠れ」なるものを持ち出してまいりました。

       身代も未だ健在です。