あこう浪士 血風録 その1
「たそがれ清兵衛はうまい・・・!」と主人は言います。
今日はあいにくの雨と風、主人の機嫌がすこぶる悪い。
そりゃあそうだ、昨晩は今日の準備にあんなに嬉しそうにいそしんでおりましたからね。何の準備かですって?ええ釣りです。ただの釣りの準備です。
この強い雨と風じゃあ、素人のあっしからしてもまず無理でしょう。主人はすっかり当てが外れてご機嫌斜めと言う次第、こんな時は知らん顔を決め込んでなるたけ距離をとって転寝を決め込むに限ります。
しかし不思議だなといつも思うのです。家の主人ときたらよくもまあ小器用に人格を代えられるもんだなと。
昨日の事です、仕事から帰り着きますとこれが上機嫌「おお、ゴン生きとったか・・うん・・よしよし可愛いぞ・・」とか冗談とも付かぬ事を言いまして好物のおやつは余分にくれますし、頼みもしないのに釣りの講釈は始めるわで、嬉しいやら迷惑やら、おやつの手前 無愛想は出来ませんから、付き合い程度には愛想をいたします。
ええ、尻尾を一寸振るだけですがね。これでもなかなかに気を使うんですよ。
釣りの講釈と言いますと、その趣味の無い私なんぞにとってこの上ない有難迷惑、他人の趣味をくどくど、手柄話を交えて聞かされるなんざぁ世の中これほど面白く無い事はありません。
今朝です。外は雨風、起き上がるなり主人は舌打ち致します。これじゃあ釣行は無理なのですが、しばし恨めしげに外を眺めております、かなり往生際の悪い事です。
傍に寄って「朝ごはんくれる時間だよ」と言いますと「あっちへ行け!」ですからね。昨晩と態度を変えすぎじゃあありませんか?それにしても腹減ったな・・・
我輩は犬である、名前はもうある 「ゴン」
私の名前は男らしいのですが元々は女なんです。自分では覚えていないんですが、小さい頃どうやら道端に置き捨てられていたらしいのです。主人の子供が拾って帰ったのを何処でどう間違えたかゴンと名付けられて、家族の一員と成ったわけです。 女と分かってから、これは先々悪い男に引っかかってはいかんと言う事で、避妊手術を受けましてね今では男でもない女でもない、人生成らぬ犬生を送っていると言うわけなんです。
家族の一員に成ってから、それは可愛がられておりまして、主人などは「うちのゴンに選挙権を・・・」などとほざいて、人を煙に巻いておりますから、それくらいの程度で可愛がられております。
随分大きくなってからの話ですが、白石島にフェリーで主人の知人を訪ねます。
よそ様はどのような仕組みか存知ませんが,当時人間だけでなく「選挙権のある犬」の私も渡船料金をとられましてね、一躍 島へと向かったのです。
私が通路でうろちょろしていた時の事です。乗客の中には犬の嫌いな人も有るでしょう、一人の男が私を足で小突いて「あっちいけ!」と言いましてね、その時ですよ事件が起こったのは・・・
やぁ~! 釣り師は気が短いとは聞いておりましたが、家の主人ときたら電光石火、まだ瞬きなど終わりきらぬうちに大声を上げます。
「おい・兄さん 家の選挙権があろうかという犬になんちゅうことをするんじゃ!」
当のお兄さんの驚きようと来たらありませんでね、口元など半開きに成っております。その上船内の乗客も大声でびっくりするやら、よく考えてみると、選挙権のある犬?と言うところで、なんとも間が抜けては来るのですが、理解しがたいところで驚いています。
「犬だってちゃんと料金を払った立派な乗客だ、よしんば料金を払った荷物にしても、足蹴にするこたぁなかろう、それとも何かい 島の行儀じゃあそれが当たり前かい?
断りの一つもなけりゃぁ、そりゃぁこっちも意地だ。なんならこっちの行儀で始末をつけようか」
騒ぎは大きいのがよろしいのでしょうか、好奇心の塊で乗客の方は成り行きを見守っています。
兄さんは心持口を閉じて黙ったままです。
騒ぎを聞きつけた船員の方のとりなしで一応収まりは付いたのですが、日常には無い騒ぎに満足する乗客、口は閉じきらない兄さん、興奮冷めやらぬ主人と、船内は奇妙な空気が流れています。
私といえばそれからは船内何処に行っても可愛がられましたね。人間とは不思議なものですね。
それにしても主人朝ごはんの段取りをまだしてくれません。
あら、来客か・・・ああ釣りの弟子で・・・かなりへたくそな人だな・・・
一つ尻尾でもふっておくか、何かくれるかもしれない・・・