魚を釣るための秘策 それは程よく隠すものなのです。
先ごろ罰当たりの御神籤引きの話を書いたところでありますが、大層乱暴な話で御座いましてこんな奴ばかりが「釣り師」と思われるのも心外で御座います。
ほとんどの人はおとなしいものでして、一部の無法者の振る舞いでその他大勢の釣り師があおりを受けるのは可哀想であるところです。
この男記事とは関係ありませんが、写せといいます。知り合いのインド人を訪ねますとしきりに写せと言います。 何故かは分からないところです。
釣りを極めようと言いますものは、当然他人様に聞き及ぶ事もあります。しかし基本は個人の推敲作業ですから、途中は試行錯誤の連続、時にはとんでもない勘違いで痛い目にあうなどしょっちゅうですから、舞台裏などとても人様に見せられたものではありません。
ですから開発途上の新しい試みなど深く静かに押し黙るものなのです。
さる釣り師がございまして、これも無い頭をこねくり回して他人様の鼻をあかそうなどと企てまして、工夫の事などしてまいります。
釣り師の工夫などといいますものは、思い込みが激しい人種の事ですから、思いついたらこれが最上で画期的なものだと固く信じるのです。そうです3千年も数々の釣り師がそう思い込んで工夫してきたのですが、未だ革命的な最終兵器は現れてはおりません。
ほとんどが空鉄砲の打ち放題に成っておりまして、釣り師の屍の山という有様で御座います。
さる釣り師、これが工夫してまいったのが「延縄釣法」と言うわけで御座いまして、これまた風光明媚な瀬戸内海の洋上に恥を晒す事で御座います。
「おい!先程から貴殿、何やらごそごそ隠すようにして何をやって御出でかな?」
「何も! 気のせいです・・」
「気のせいなもんか!怪しき振る舞い、尋常のことではござらんぞ・・どれどれ」
普通の振る舞いをしておればよいものをなまじ隠してまいるのですからすぐ悟られます。
釣り師というものは微妙な変化や、急激な変化に敏感なものでして、すわ何事かと目を向けて参ります。それぞれ静かに座って竿先を見つめていると思ったら大違いで、周りに注意深く観察の目を張り巡らせているもので御座います。
どなたかに魚が掛かってまいりますと、急激な動きですぐ分かります。ちらと目をやりますと、魚種は何で大きさはどれぐらいかを瞬時に判断して、自分の釣りに生かします。
あの魚が釣れるということは、時合いということで自分の釣りを修正したり狙いの魚を替えるなど判断をしてまいるわけです。
「おい悪いようにはせんから、おとなしく見せな」と申しまして何やら隠そうとするのを無理やり引っ手繰ってまいります。
「お~い! みんな集まれ! こいつこんな仕掛けを作っとるど、小癪な」
と、結局は悪いようにしてまいるのですから、これが人間のする振る舞いかと世間様にあざけりを受けるところで御座います。
この男の苦心した事とは世にいう延縄(はえなわ)の変形ということでして、そのからくりはこうです。普通我々釣り師は手持ち一本竿に一本針、さもしく二本も仕立てると言う事はありません。達者に成れば分かるのですが、これが最も効率がよろしい。
さて仕掛け。先端におもり、それから10本ばかり針をしつらえます。針の間隔は20センチばかり離れております。竿側におもりをつけましてこれを海底に仕掛けてまいります。
一本針より10倍効率がよく魚が餌を見つけやすいだろうと言う魂胆で初心者が考えそうな謀をめぐらしてまいります。
この仕掛け一見合理的で有るように思われるのですが、致命的欠陥が有ります。
我々の釣り場は特に海底はごろた石や漁礁、それらに引っかかり切れた仕掛けなど海底一面その調子ですから10本も連なった仕掛けを投入した日には一発で根掛り、折角の工夫など一回の投入で海の藻屑と成り果てるのです。
「お前さん辛抱したところだが、どうにも具合が悪い。こっちを立てればあちらが立
たない、どうにも立たない袋小路だ、それにしても強欲だねえ」
「あんたねえ、一言相談でも掛けてくれた日にはこんな馬鹿な真似はさせなかったの
になあ、それにしても馬鹿な事を思いついたもんだ、お前の母ちゃんさぞかし泣い
ておろうのう」
まあ散々にいたぶってまいる事です。箸にも棒にもそっぽを向かれる仕掛けを作った本人、とっくに立場などかけらも御座いません。
他の釣り師がこの仕掛けを自信をもってだめと言ったのには訳が有ります。
どいつもこいつも昔同じ仕掛けを密かに試して痛い目にあった苦い記憶が有るからです。