津軽三味線 高橋竹山さんと 釣り師 その3 神戸地震
福山に竹山さんをお迎えしたのは都合四度のことだった。
最初はいかんせん右も左も、その上前後も分からぬ無謀な企て、あちこち綻ぶところで
冷や汗をかいてまいります。
このような催しは一人の手では運営が無理なところ、知り合いなど70人ばかりを関係者として運営に当たってもらいます。
なあに打ち上げで不足の無いよう一服盛るのですからよく動くのです。
「飲み足りん、食い足りんが有ったら返さない」が合言葉ですから、不足の出る幕など隙間のない事です。
公演を数度繰り返しますと同じ関係者ばかりですから、目を瞑ったところで事は運んで参ります。
当初は「三味線・・ださい」などとほざいた若い衆も最初の公演が終わると早速CDを買いあさる手のひら返しの術を使うのですから、見かけで決め付ける怖さを味わう事と成って参ります。
主催すると言うのは因果な商売で、公演が始まるまでは不測の事態を空心配いたすもので、一週間前辺りから食い物の味がしなくなり何事も上の空となって参ります。三味の糸が切れても見世物にする術を見せられた後で御座います。落ち度があるような無様な事はいけません。
修羅場と言うのは人間強くなりますもので、数度経験いたしますと嘘のような余裕が出てきますから、経験に勝る薬など信用できなくなります。
公演が始まると後は遅れてきた観客のあしらいだけですから、関係者は皆演奏を聴いてもらいます。
主催者はそうは参りませんでここが辛いところ、これを繰り返しますともうこちらではどんな演奏会でも、落ち着いて聴くなど出来なくなるものですから、これは不幸というものです。
釣り師にとって今日は釣れるだろうかという不安が有ると同じく、公演を主催しまして変わらぬ怖さと言うのも御座います。
さあこれから会場に観客を入れるという段に成ります。
外は入場待の山の様な観客、この観客が曲者どちらも人間関係は無く自分勝手な奴ばかりです。
いい席に早く座りたいのやら、不足をあげつらうのやら自分さえよければ良い、餓鬼のならず者集団で御座います。
これに対峙するというのは恐ろしいものです。
竹山さんの演奏は術なのではないかと思うのです。
あれだけ餓鬼だった烏合の衆が演奏を聴き終わって会場から出てまいりますときには、皆仏様のようになっております。
同じ感動を味わいますと、連帯感のようなものや思いやりのようなものまで身に付けて、階段はお互い譲ってまいりますし年寄りには手を貸すやら。感動の共有はいともたやすく生き仏を作られるのです。
ここまで見事な変わり身を見せられますと、芸の力と言うのは恐ろしいものだ。
善男善女といいますのは術に掛かって参りますと家に帰りません。
演奏会の翌日は電話が掛かって参ります。大抵が感動して朝方まで話し込んだと言うのが多御座います。
現実の待つ家よりも、夢心地に酔っていたいと言うのは分かるところですが、朝帰りの不良と紙一重のところですからあまり褒められない。
関係者はしこたま飲んで食って、あとはどうなったか、これはあずかり知らぬ。
竹山さんの最後にお迎えした公演は大変だった。
神戸の地震の後、公共交通が全て普通、到着できなければ中止の憂き目。
幸い北陸から日本海沿いで到着されたのですが、流石に鈍行の乗り次には閉口されたようだ。
竹山さんの公演は今だから言える。当時かなりの公演料だった。
晩年は人間国宝にとの声が高かったぐらいですから、それは結構な額だった。
こちらは素人の集まりで、なぜか気に入っていただいたところで破格の五分の一だった。
もちろん専業でもありませんから入場料も破格にするところ、とにかく大勢にそれは聴いて欲しい事だ。
演奏に感動した人と言うのは気前がよくなるということを発見、そうなりゃあ公演の収益も募金箱に、もちろんこのときばかりは打ち上げなどなし、酒好きには残念な事だったなあ。
竹山さんは津波に会われて九死に一生を得た経験があるとかで、大層心配なされた。五分の一の出演料は綺麗さっぱり、募金箱の中にそっと置かれた。
人を感動させる芸と言うのは後難辛苦を得て人をどう見るか自分はどう有りたいか考える中から編み出される魂の叫びに近いものではないかと、駆け出しの釣り師はここまでしか思いつかなかった。
後日市内の一流老舗ホテルから、大きな会合の余興に2~3曲安く来てくれないだろうかと電話があった。竹山さんに交渉してくれと言うのだ。
事を分けて無謀な企てだと諭して「2000万積んだら話に成るかもしれん」と言ったのは余分の話だ。
個人の思い込みなどにお付き合いいただいたのですが、最後の一話がまだ御座います。出来ますれば戯言の一つ、最後までお付き合い願うところです。