備後「あこう浪士」  釣り場の周辺

  釣り場は釣り師の巻き起こす喜怒哀楽に満ち満ちて・・・  さて 事件は釣り場の周辺で起こってまいります!

猫寄せの久良やんはかく語りき! 墓暴きの顛末と言い訳 (2)

 

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(後編)日本史が変わる!飛鳥時代の吉備の中枢は福山(猪ノ子古墳・吉備国守墓説)。

 

 考古学の権威であった岡山大学の故近藤義郎名誉教授が、新市町の尾市古墳を見学されたとき「おかしい・・・」と言われたことを、案内した知人に聞きました。

 

 福山北部地域の「列島に例を見ない後期・終末期の古墳集積」に対しては、専門家は「おかしい」「異常」「わからない」と言うばかりで、今日まで「あいまいのままでよし」としてきました。このおかしな通説(常識)」の主因は、「吉備の中枢は、岡山県総社市周辺である、なければならない」とする、学者・研究者自らの呪縛によるものではなかったのか?と思うのは、私一人のみでございましょうか?

 

 この「おかしい・異常な状態」は「福山北部に吉備中枢があった」とすれば、「なるほど」「当然」「なんだ!」になるという訳です。この新説の「ベッピンさん」には、何の落度もありません。これはとてもシンプルな現実的証拠をもとにした真実です。

 

 わかってみれば、「おかしい・異常」となっていたのは、無理やり岡山地域に飛鳥時代の吉備の中枢があるとするからだ。という簡単な謎解き話なのであります。

 

 私の知る範囲では、岡山県総社市付近が飛鳥時代にも吉備中枢であったとの研究や論は見られませんし、その時代の主要遺跡や史実といった証拠も見えません。

 総社市周辺には、弥生時代の盾築墳丘墓、5世紀の造山・作山古墳という超巨大墳があり、そのころから吉備の中心であった、から「飛鳥時代もそうであろう。」という、証明されてもいないない、「変な常識」に縛られてきたと言うことなのでしょう。

 

 雄略天皇の5世紀に、大和王権が吉備の3つの乱を鎮圧した後の、吉備の勢力図をイメージすることが重要であると思われるのです。その後、吉備の中枢はどこになったのか・・・

 学問をする人間は、心身とも無理や無茶はいけません。もちろん、知らないふりも学問人としてどうでしょうか?御用の場合は当然なのかもしれません。

 

 先にも申し述べましが、この新説は素人の私ごときが、今まで知られている資料を整理したら、飛鳥時代の吉備中枢を示す証拠がわんさか出てきて、専門家が言っていた「列島に例を見ない遺跡の集積や史書」が「ベッピンさん」に化けてしまった訳でありますから、そう多くの異論や反論が期待できる?新説ではないと思われます。

 

 ただ、多くの人にとっては「信じにくい、信じたくない」だけのことであります。学者や専門家が内容を確認し、実態を再調査すればすむことなのであります・・・。

 デザイン思考は、ものごとを整理し具現化することが得意でありますが(釣り師の方々の釣果にもおおいに貢献する代物ですが)、なんとなくの常識や通説でもいざ変えるとなると大変なのが現実であります・・・

 

 つまるところ、久良の「飛鳥時代・吉備福山中枢説」は、飛鳥時代の吉備で最大の猪ノ子古墳が吉備国(現在の美作・備前・備中・備後とその周縁)を治めた国守(くにのかみ=現在の県知事のような役職)の墓であり、吉備国守・当麻公広島(たいまのきみひろしま)になると言う訳です。広島は聖徳太子の甥にあたると考えられる皇族で、日本書紀天武天皇元(672)年に吉備で亡くなった記録があります。

 芋つる式で考えると、大和朝廷の皇族が吉備国のトップの国守であり、その古墳が福山市加茂町にあるのだから、吉備国の中心である国庁(国の役所)は、古墳の所在地の加茂町あたりにあったとことになる、というわけです。

 

 しかし、この古墳だけでここが吉備の中枢であった、との確定は少々不安になります。この「飛鳥時代・吉備福山中枢説」の品質向上のため、念には念を入れて多重クロスチェックー!を実施して、より一層安全安心で信頼のおける「ベッピンさん」にしております。

 

 チェックは「飛鳥時代の主要古墳の所在分布、古代寺院、神社、古代の地割、地名、古代山城・海城、分国後の吉備(備後・備中・備前)の支配氏族の系譜と国守の位の差異、日本書紀続日本紀万葉集日本霊異記、地域の史書など記録」の項目で実施済みとなっております。「ベッピンさん」の信用は担保されるに足りておるのでございます。

 

 日本書紀にある、天武天皇8(679)年に吉備で亡くなったもう一人の皇族、吉備太宰・石川王(いしかわのおおきみ)の古墳は、王族に多い八角形の墳丘と十字型石室をもつ尾市古墳(新市町)に比定できます。

 芦田町には王を祀る国司神社(くにしじんじゃ)や、王をめぐるいくつもの伝承があり、その中には「王は国府の東の片山に葬られた」と、尾市古墳を示すものもあります。そして、福山には現在も子孫を名乗る石川姓の宮司家があるのです。

 岡山県真庭市の大谷古墳が、石川王の墓ではないかとされたこともありましたが、大歳神社由来の読みである「ダザイ地名」が近くにあることからの推測であり、現在では市教育委員会が否定しています。

 

 当然ながら、吉備国守・当麻公広島、吉備太宰・石川王の亡くなった時期と猪ノ子・尾市古墳の築造年代も一致しています。

 

 つまり、全てのチェック項目で、飛鳥時代大和王権との繋がりを示す証拠は、岡山地域より福山地域が圧倒的に優勢で、無理なく猪ノ子古墳が吉備国守墓であるとの結論になるのです。

 

 という訳で、今までほとんど全ての人にとって、「吉備の辺境や周縁」でしかなかった備後・福山地域が、実は「律令国家・日本」が始まった時代に吉備の中枢であり、西の大和とも言える地域であったことを、了承していただけますでしょうか?

 吉備の後(ケツ)と自虐的だった、備後・福山地域の人々も、これからは地元の歴史を誇りにすることができるようになるでしょう。また、自分たちの地域らしさ(アイデンティティ)の原点になるのは間違いありません。

 福山市の開き直りとも言える、ブランド化スローガン「なにもないとは言わせない」が、ひょっとすると「こんなのあって、どうしよう!」に変わるかも知れません。めでたし、めでたし・・・。

 

 信じる人も、信じないヒトも、詳しくは飛鳥時代・吉備福山中枢説を掲載した(吉備福山情報綴1・2号、吉備福山新聞)をお読みいただきたく存じます。少し専門用語や漢字が多いのが難ではありますが・・・。

 

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