牢名主と若頭、ふんどし担ぎで成り立つ釣場
いま少しの辛抱をと言う季節になってまいりまして、魚も人間も活性が上がるまでにはあとわずかの日数を数えればと言う季節になってまいりました。
世の中そりゃぁ活気が有るに越したことは御座いませんで、しょぼくれた湿っぽいところではいかにも貧相でいけません。
賑やかで元気そうに繁盛するところにはそれは人も金も集まるものでして、その賑やかさにもちゃんとした裏づけが有るもので御座います。
結構賑やかな店など参りますと、番頭格の人が睨みを効かし、手代格が的確に指示を飛ばし、後は淀みなく仕事をこなすと、無駄なく一連の流れが出来ておるもので御座います。
釣場にも活性のある釣場と、貧乏神の寄り付かぬであろうと思われる大層貧相な釣場があるもので御座いまして、それぞれ釣り師の配置が上手く行っている所とそうでない所でその差が出て参ります。
釣場と言うのはどこも水を打ったように静かなものでして、息を凝らして魚と対峙しているのですからいきおいそうなるのですが、これが同じ静かでも活気のある静けさと言うのが有るので御座います。
さて活気のある釣場で御座います。中央にでんと構えるのはなんと言っても大御所、そこはなにぶん釣り師で御座いますから、程度のいい牢名主ぐらいの権勢で御座いまして、決して大統領とか将軍辺りの扱いでは御座いません。そこは地道に名人上手になった手練が支配しストーブに乗ったヤカンのように座るので御座います。
次にちょこまか動き回りますのが番頭、手代に若頭の類で御座いまして腕のほどは達者、貫禄のほどはそこそこ、押しなべて面倒見がいいとこうなるのです。
最後は学芸会で言うところの村人その1~その3辺り、別名ふんどし担ぎ又の名を丁稚さん、特殊呼称で準構成員が配置され、それにど素人が加わりますと、さて相整いましたところで見果てぬ夢を追いかけてうごめくのです。
名の有る名人など一人でも居ります釣り場は、「あの人が通うなら・・」との思惑が有って一段と格など上がるもので御座います。
番頭さん辺りになりますと、腕はそこそこ有りますしいずれかには名人と呼ばれるくらいにはなりたいものだと牢名主目指して切磋琢磨。
なにぶん途上の釣り師で御座いますから、ふんどし担ぎならぬ初心者に教える事でより一層腕の上がる事になります。
とまあ牢名主、番頭さん、ふんどし担ぎが程よく配置されますとこれは活気の有る釣り場ということに成って参ります。腕を上げるには目指す対象がそこにあるのですからこれほど手っ取り早い事も御座いません。
身分制度があるのかと驚きの向きも有ろうかと思うのですが、釣りをすると言う事では皆同じ、同じ土俵でうごめくのですからそんなものはありません。
ただ、技量の差の区別だけの話で御座います。
様々な技量の者が都合よく配置された釣場は素人さんにも親切なもので、それは番付の上がるのも早よう御座います。
事ほど左様に、様々な人が配置されて始めて釣場と申しますのは繁盛するのです。
そこでだ、浪士の野朗は牢名主かい・・と・・言われましてもそう言う事は御座いません。
じゃあ若頭辺りの番頭さんかい?・・と言われましてもそうじゃあ有りません。
おいおい、それじゃあ日頃の大口はハリボテの水増しこんにゃくかい、という事になりますがそれとも違います。
なんですな、浪士本人にも取り巻く釣り師にもそこの所が良く分らない。
何しろ廻りはチヌだのメバルだのそれぞれ趣向は違えど愛好者が多い。
いきおい釣果でその差と技量が容赦なく分ります。
これが浪士の野朗は「あこう」だけを狙うと来て、競争相手も同業者もいないのですから比べようが御座いません。
下手なのかといいますとポツリポツリと釣ってはいるが上手かと言われると比べるものがない、浪士本人にとっても周辺にいたしましても誠に厄介なものとなって、最後は邪魔にならんのなら適当にその辺において置けと言うぐらいの扱いなのです。
誠に厄介で困った存在なのですが、幾らなんでもふんどし担ぎよりは程度がいいだろうとは思いたいのだが・・・