「侘助」の釣り師
「寒椿」と言うのは白い雪の中で凛としたたたずまいが健気で、好きな花の一つだ。
どうした訳か子供の頃寒い中でも清楚というよりも存在感の有るその花の前まで行くと、がさつな身でも思わず足を止めて見入るぐらいの力は持ち合わせているので、それは不思議な気を引く花で御座いました。
年端の行かぬ時分でそうであったので、その頃刷り込まれた鮮やかな印象は大人になっても消えるものではなく、賢覧豪華な花や清楚な花など数あるところですが、何が好きかといわれれば、やはりおろそかにできない位置に寒椿を持ってくるのですから、明らかな根拠は無いのですがやはり好きな、人の気を引く花いうことになって参ります。
「ミタ」さんという人が有って五十と呼ぶにはちと可哀想なのですが、頭は白髪が容赦なく目立ってこちらは余り可哀想で無いところで足蹴く釣場に通う、これは釣り師で御座います。
ミタさんというのは親愛の情を込めた愛称で、本名は御手洗さん。温厚を絵に描いたような穏やかな人で「ミタライ」さんというのは言いにくいし、よしみを通ずるのにはやはりミタさんです。
福祉の専門学校で「機能回復の・・・なんとかを」どうにかする事を教えているらしいのですが、こっから先は釣場には用のない事だ。
ミタさんは温厚な人なので、若い物知らずが「オテアライ」さんと恥ずかしげもなく呼んだときも「ミタライといいます」とそれはにこやかに言う人だ。
小まめなそつの無い釣りをする人で、毎週律儀に顔を出すので船頭などはしっかり売り上げの頭数には入れておりまして、なかなか当てなど外れないのです。
釣場における常連といいますのは顔ぶれなど決まりきっております。常連なのですから当たり前の話なのですが、これがひとたび顔を見せないとなりますと俄然やかましくなるもので御座いまして、風邪だろう・いや法事だ・町内の・身内がとなりまして、間が空くにつれて入院だ・夜逃げだと続いて最後には「くたばったらしい」に成りますから、おちおち油断などして釣場を空けることなど出来ないのです。
ミタさんも一年は経とうかと言うぐらい顔を見せない時期があって、温厚な人柄は知れ渡ったところ悪し様には皆言いません。忽然と釣場に顔を見せたときも「おや珍しい」が関の山で、後は通り一遍の挨拶ですんでおります。ここは人格のなせる技としか言いようが御座いません。
これが浪士ごときに成りますと、刑務所だろうぐらいにしかなりませんから世間の見立てはかなり公平なのです。
「ミタさん、寒椿かい?」
「いえこれは侘助というらしいのですが、自分も良く分らんのですが女房が・・」
ミタさんの車に時折見かけるようになった新聞紙に包んだ花は、やはり冬時期に咲く椿の一種らしく、侘助とかいう何か曰く有りげな名前の花らしい。
人は思いがけず繋がっていたり思いがけず出会うものでして、ミタさんともなじみの居酒屋で出会ってまいります。
店主も釣りが好きで、釣りの趣向が違うので一緒には同行はしませんが、逃げられないのをいい事に店主とつまみを肴に下衆な話で盛り上がっております。
話しは都合よくミタさんが店を訪れて始まります。
意外なところでの出会いは結構唖然とはしたのですが、店主とミタさんは古くからの家族ぐるみの仲らしく、こうなれば忌憚の無いところで釣り談義には事欠きません。
ミタさんの家族内の内情を知ることになったのは後日この居酒屋を訪ねた折だ
「ミタさん奥さんが亡くなったんで、病気が発覚して一月もせんうちに なあ・・奥さんええ人でなあ、自分のことより他人のことばっかり気遣う人で・・・あそこは子供がおらんけえ猫と花の咲くなんとかゆう木を大事にしてなぁ、植木にそっちに伸びたら日陰ん成るよゆうて水をやりょちゃったがなぁ」
ミタさんの車に有った侘助とやらはもしかしたら手向けの花だったかとも思い当たるのだが確かめようも無い。侘しい話に侘助と言うのもあまりに都合が良すぎる話だが。
釣行の道すがら今年は寒椿だか侘助だかがやたら目に付く。今だ良く判別できぬその花の、野に置かれようが違って見えるのは只の気のせいだろう・・・・・