釣り場で起きた涙の入水 そのとき彼らの胸中に去来するものは その1
入水 なんとおごそかで神々しく悲哀のこもった言葉では有りますまいか。
古来より瀬戸内海にも、自分の意に反し、やむにやまれぬ事情で入水された方々が多くいらっしゃいます。 平家一門の壇ノ浦の集団入水など、まことに哀れを誘います。二位の尼と安徳天皇の入水など涙なくしてはとても語れるものではありません。
驕った挙句の結果といえばそれまでですが、滅びの美学、どちら様の最期もはかなく、無情を感じざるをえません。
今は昔、私が見届けた釣り師の入水、こちらは平家御一門様と違い、かなり趣きが違ってきます。それはおよそ「おごそか」「神々しい」「悲哀」からは、これ程までに、と思うくらい、それはそれはかけ離れたもので御座いました。
釣師 岩下様の御入水
岩下様は、それはお酒が好きで、酒天童子かと見紛うくらいお飲みになります。御入水当日も釣り筏の上で大層の御召し上がりよう、持参の酒は途中でなくなりました。すっかり出来上がった風に見えるのですが、当のご本人はそれでも足りないらしくぶつぶつ何かつぶやいております。そのうち声が大きくなって「誰か酒を買うてけえや」と怒鳴り始めました。見かねて小林様、そこは年の功、人間が出来ております、早速、船頭を呼び「よしよしわしが買うてきてやる」などとなだめております。
しばらくして船頭の船が小林さんをむかえに不機嫌そうな真っ赤な顔でやってきました。こちらは70年ばっかりの飲酒の年季で格と迫力が違います。年中、朝から晩まで酒が入って飲酒操船、よくもまあご無事で。小林さんの尽力でこの件とりあえずは収まりが付いたことでした。
お待たせしました、いよいよ岩下様 御入水です。
出来上がった状態で、そこはそこ、釣師ですから体が揺れながら釣りを始めております。
波のリズムに合わせ筏も揺れます。釣師は無意識に筏のゆれに同調しております。この平和が保たれた状態は、波・筏・釣師の重心それぞれのどこかリズムが崩れたときに一気に、阿鼻叫喚・地獄の沙汰に変わります。
「あっ・・・」大きな波に重心を崩された岩下様の、驚きと必死に対策を執らねばとの思いがこもった恐怖の叫びが聞こえたのは大型貨物船が起こした引き波の後で御座いました。
見ると彼は微妙な角度に傾いて、片方の手は釣竿、片方の手は必死に現世にしがみつこうと、つかまるものを探しています。 このとき彼の胸中に去来するものは! 竿を放せばと思うのは第三者、当事者は「高価な竿、放してなるものか」と欲に目がくらむと同時に「このまま落ちたら恥ずかしい」と世間体気にしながらなおかつ「駄目だこりゃ無理や・・」と落下の恐怖と現世への未練で、判断を決めかねています。「潔く落ちるか、それとも何か手段はないか?」慌てふためいた迷える釣師のあがきは、その腕の振りようで判ります。
「岩ちゃん、駄目や。あきらめて心いくまで落ちや」
離れたところで釣ってい私どもには助けるなんの手段も御座いません。だまって哀れな釣り師がより無様に落下入水するのを面白がるしかありません。
そのうち彼の身体はよりその角度を増して、いよいよ越境角度、限界角度に近ずいております。「ブウギヤ~パ」声にならない奇妙な雄たけびとともに、両腕はいっそう激しく無目的に動いています。
岩 「まだ何とか成るんじゃあ~」 諦めが肝心やろ。
岩 「だめだ、もうつかまる物がない~」 俺ら間に合わんわ。
岩 「神様・仏様・・・」 そんなものはいない。がきの頃、神社の賽銭箱手え突っ込んだろ。
岩 「お母ちゃん~・・」 日ごろの親不孝棚に上げて。
そして、哀れな迷える釣り師は海中へと断末魔の絶叫を残して没したのであります。もちろん現世の名残りである釣竿は持ったまま、煩悩を空中に残し見事入水の顛末となりました。
わずか、1秒にも満たぬ間に彼は彼の人格を全部さらけ出して落下した。
」胸中やいかに。
筏の上にあったロープを投げ入れ無事ご帰還となったのですが、投げ入れるロープがちょっと届かなかったりを繰り返し、さんざんにいたぶられたことでした。
助けられた彼、竿を放さなかったのは流石とゆうべきか。げに恐ろしきは釣り師の執念で御座います。
この日彼は一匹も釣り上げることが出来なかったのはゆうまでもありません。
次回 小林様涙の入水
おのおの方用心めされい。