揺らぐ釣り師 救いの手はいまだ・・・
どうして釣りばかりに呆けるかという人があって、そう正面切っていわれると大概返答に困ってまいります。
そこに魚を釣る遊びがあるから、それを気に入ったからという言うしかないのですが、どうも漫然とした事で、釈然とはしてまいりません。
最近飼い犬と遊んでいた時ふと気が付いたことがあって、それはワン君はいつも一定で変わりが無いということ。 言葉は便利で不便だな。どうにもうまくは説明できない。
ワン君は犬であって人間とのかかわりで、駆け引きも無ければ騙しもしません。何時も同じ態度で接してまいります。それ以下でもそれ以上でもなく一定の人格(犬格)で接してまいります。
釣りも餌を付けた仕掛けに食いついた魚を釣る、単純な作業でこれもそれ以上でもそれ以下でもありません。
こうしてみますに、釣り、犬ともどちらも一定で変わることはありませんから、揺らいでいるのは人間のほうとなってまいります。
揺らぐ人間の中で 「釣り師」 程いい加減なものは御座いませんで・・・
釣り師の朝は早よう御座います。それは律儀に目覚めて釣り場に赴いてまいります。この移動中手持ちぶたさにラジオなどをつけますと、大概朝の時間帯は宗教の番組が多く、お互い喧嘩することなくお行儀欲並んでおります。それにしてもなぜ朝なのでしょうか?深い思惑でもあるのですかね。
釣り師の頭などと言いますものはいたって単純に出来ておりますから、この宗教番組に程よくこんがりと影響されます。釣り場に着くまでには・・
「どんなに美しい言葉も愛が無ければ相手の胸に響かない」
「地球上の生き物すべて慈しみの心で交わらなければならない」
と、これぐらいのことは言えるようになって、己の欲だけで律儀に早起きした釣り師は、にわか聖人君子に成り果てます。南無阿弥陀仏、なにとぞこの迷える子羊を救いたまえ。
渡船場に着くや、にわか聖人君子は豹変します。それもゴルゴ13並の一流狙撃手気取りです。先ほどまでの修行は何だったのでしょうか。魚を釣るためなら何でもありで亡者のごとく釣ってまいります。そこにつつしみなどと言う言葉はありません。餌屋のカウンターにでもしっかり置き忘れております。
さてこの亡者、ほとんどが思惑どうりにはなりませんで、帰り道には反省することになります。
この堂々巡りの進歩の無い小羊、いまだ救い出した神様のことは聞いたことがありません。